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Early Days of Mike Hodges


■少年時代
 マイク・ホッジスは1932年7月29日、イングランド西部の港湾都市ブリストルに生まれた。父親はタバコ会社の宣伝部に勤めるサラリーマンで、ごく普通の中流家庭。父は英国教会の信徒で、母はカソリック教徒だった。

 1939年、マイク少年は7歳でバースにあるカソリック系の全寮制学校へ送られ、15歳まで親元を離れて過ごした。学校生活は決して楽なものではなく、8年の間に彼は一人で生き抜く術を学び、そして信仰を捨てた。聖職者たちによる体罰と性的いたずらも日常茶飯事だった。

ホッジス「小学校の夏休みに帰宅したとき、寝ている間にこっそり体を触ってくる寮長の話を友達としていたら、母親に仰天されてね。すぐさま彼女は学校側に問い質したが、もちろん向こうは“事実無根です”と答える。そしたら僕らはあっさり学校に帰されちまったんだ。信じられるかい? 言われたことは素直にそうと信じる、人々の心が純粋だった頃の話さ」

 しかし、それがきっかけでマイク少年の待遇は変わった。寮長は彼に対してひどく無口になり、かと思えば図書係という大役を与えた。あまり熱心な読書家ではなかった彼にとっても、それは楽しめる仕事だった。

ホッジス「本や言葉は好きだったからね。あるとき、その寮長に“レイプってどういう意味ですか?”と訊いたら、慌てて“庭仕事に使うものだ!”ってはぐらかしてたよ(笑)。夜になると、彼は寝室を回って少年たちの体を触った。暴力的でもなければ、自慰のためでもなく、ただ若い肌に触れたいだけ、とでもいうように。なんとも悲しい男だった」

 時は戦争の真っ只中。人々の思いは「いかにしてこの苦境を乗り切るか」であり、寄宿学校に押し込められた少年たちとて例外ではなかった。

■銀幕の誘惑
 ようやく寮生活とおさらばし、サリスベリーに暮らす両親の元へ戻った15歳のマイク・ホッジスは、近所にある映画館に通い始めた。闇に浮かぶスクリーンを見つめながら、彼は漠然と自分の進むべき道をそこに見ていた。

▲『A Girl in Black』米盤DVDジャケット
 この頃にホッジスが影響を受けたのは、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』(1950)、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー監督の『老兵は死なず』(1943)『天国への階段』(1946)、ジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督の『イヴの総て』(1950)といった作品群。『キッスで殺せ』(1955)のように、B級ジャンルの中で異彩を放つ作品にも魅了されたという。また、ギリシャのマイケル・カコヤニス監督も、彼だけのお気に入り監督の一人だった。

ホッジス「カコヤニスは私が最初に好きになった外国人監督だ。特に『A Girl In Black』(1955)の素晴らしさは忘れられない。もちろん外国映画だったから、サリスベリーでは2本立ての1本として公開された。信じられないことに、ほかの観客は上映中ずっと喋りっぱなしだった。思わず立ち上がって“黙れ!”と怒鳴りつけてやったよ。カタイ奴だったんだね。だけど私は単純に、近年のどんなAランク作品より素晴らしいあんな傑作を前にして、どうしてあのアホタレどもが普通に喋り続けてられるのか、理解できなかったんだ」

■現実の将来
 ホッジスが映画館に通いつめた理由は、親の押しつける「安定した将来への道」から逃れるためでもあった。数学が得意だったので、父は息子を公認会計士にさせようとした。彼自身はロンドンの王立演劇アカデミー(RADA)に進みたかったが、到底かなわぬ夢であった。

 彼は1955年に会計士の資格を取るが、兵役を控えていたため、入隊までは郵便局や農場、ベッドのセールスなどで働いた(イギリスの兵役義務廃止は1959年)。同年、22歳で英国海軍に入り、漁域警備艦隊の一員として2年間を過ごした。

▲海軍時代の若きマイク・ホッジス

■海軍での経験
 ホッジスは海兵としてアイスランド、ノルウェー、スウェーデン、オランダをめぐり、そしてイギリス中の港を回った。その経験は彼の人生観を根底から変えるものだった。

ホッジス「小さな軍艦の下デッキに立ち、掃海艇で働いた経験は、私の一生を永遠に変えてしまった。その2年で、中産階級出身で私立学校上がりの若き保守派は、過激な社会主義者へと転向したのさ。ハル、グリムズビー、ロウストフトといった港町で目の当たりにした、貧困の凄まじい実態は、私の政治意識を激しく変えてしまった。そのときの経験は『狙撃者』(1971)に強く反映されている。船のデッキが私にとっての大学だった」

■テレビの現場へ
 除隊後、ホッジスはロンドンへと向かった。最初に得た職は、テレビのプロンプター係。巨大なロール紙に台詞やキューをタイプし、それを本番中に出演者や観客に見せるという仕事である。当時、TV番組のほとんどは生放送であり、必要不可欠な仕事だった。ちなみにその会社のオーナーだったハリー・アラン・タワーズは、『悪徳の快楽』(1970)や『オペラ座の怪人』(1989)といったB級ジャンル映画を一貫して作り続けている有名な映画製作者だ。

 ホッジスは末端のスタッフとして働きながら、BBCスタジオの中で進行するテレビ番組から映画にいたるまでの、様々な現場を見ることができた。

ホッジス「テレビのスタジオというのは、初めて入る者にとってはなかなか手ごわい場所だ。でも私はそのとき、そこで起きている全てのゴタゴタを、自分だけの視点で観察できる立場にいた。それですぐに分かったのは、演出家なんてどいつもこいつも馬鹿野郎だってことだね。おれの方が絶対にうまくやれる、と」

■演出デビューへの道
 あるとき、ホッジスはABCテレビのプロデューサー、シドニー・ニューマンと同じ列車に乗り合わせ、彼が安楽死を題材にしたドラマ企画を求めていると知った。ホッジスはさっそく脚本を1本仕上げ、ABCに送ったが、実現しなかった。しかし、それが縁で、彼の前には別の未来が開けるようになる。

 ABCの雑誌広告部門を統括していたロイド・シャーリーは、ホッジスに執筆の仕事を持ちかける。給料は段違いで、すぐにホッジスはプロンプター係の職を辞め、新天地へと向かった。

 やがてシャーリーが特集番組の重役になると、ホッジスもまた映像を直接扱う仕事に異動。「Sunday Break」という番組の編集者として働いた。そして1963年、ドキュメンタリー番組「World in Action」で、彼はついに念願の演出家デビューを果たす。エピソードタイトルは「The British Way of Death」。葬儀社の仕事ぶりを面白おかしく捉えた秀逸な作品であった。

ホッジス「初期の『World in Action』はとにかく素晴らしい番組だった。放映される当日まで内容を知らせず、視聴者の興味を惹きつけるというスタイルで、それが成功していたんだ。いわゆるタブロイド的アプローチの番組だったが、今のタブロイドとは意味が違う。それに引き換えBBCの目玉番組だった同趣向の『Panorama』なんて、かなり安っぽかったね」

■テレビディレクター時代
▲「Tempo」撮影現場にて。O・ウェルズと
 彼は「World in Action」の現場で、撮影に関する専門知識やレンズの選択、他の才能あるディレクターの仕事を学ぶことができた。各国を飛び回り、ベトナム戦争に参加する若い兵士や、ダラスの極右大統領候補、デトロイトの打ちひしがれた組合幹部などに取材した。もともとシニカルな社会意識の持ち主だったホッジスは、それらの経験を通してアメリカへの幻滅をさらに強くした。「その頃、アメリカ政府と国民は破局状態に見えた」と、彼は語る。

 2年後、ホッジスはITVの「Tempo」という芸術番組で、製作総指揮・監督を兼任(1965-1966)。彼は従来とは異なるジャーナリスティックなアプローチで、オーソン・ウェルズ、ハロルド・ピンター、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・タチ、リー・ストラスバーグ、アラン・ロブ・グリエ、そしてチャールズ・イームズといった人々に取材した。しかし、結論として彼は、芸術番組(もしくは宗教番組)シリーズはテレビにあるべきではないと考えるようになる。

ホッジス「番組を埋めるために死にもの狂いで題材を集めるうち、やがてはゲットーさながらの小世界を形成することになる。死に体とは言わないまでも、確実に疲弊するんだ。後期の『Tempo』では、そうした垣根を取り払おうとしたがね」

 ホッジスを筆頭とする数名の優秀なディレクターたちは、1966年の末から「New Tempo」と題したシリーズで、9本の実験的なドキュメンタリーを製作した。そのタイトルは、「情報の氾濫」「使い捨て」「英雄たち」「騒音」「ノスタルジア」「刺激剤」「レジャー」「暴力」「総集編」。あまりに先鋭的な内容のため、局には毎回200本以上もの苦情電話が殺到したとか。

ホッジス「私たちは番組そのものがアートになりうるように、新しいセンスを吹き込んだ。我々の思う最重要テーマを探し出し、それぞれに異なる手法で視聴者に提示したんだ。しかし、日曜の昼食時には動揺を誘う内容だったんだろうね。素晴らしいと電話してきてくれたのはたった1人さ」

■ドキュメンタリーからドラマへ
 続いてホッジスが製作したのは、アイルマー・ハル原作の全6本の子供番組『The Tyrant King』(1967)。日本では『ロンドン大追跡』の題で、1973年6月に“NHK少年ドラマシリーズ”の一編として放映されている。脚本を担当したのは、後に『ブラザー・ハート』(2003)でホッジスと共に組むトレヴァー・プレストン。

 この作品で、ホッジスは初めてフィクションドラマの演出を手がけた。彼が『The Tyrant King』を作った主な目的は、オール・フィルム撮影による番組製作のポテンシャルを重役たちに示すためであった。当時イギリス国内のテレビ番組は、ビデオとフィルムの混合か、もしくはビデオのみで作られる場合が多かったのだ。

ホッジス「私は16mmカメラでの撮影に夢中だった。柔軟で機動性が高く、自分にはぴったりのメディアだと思ったんだ。重要だったのは、フィルムで撮った方が番組をセールスしやすいという利点を重役たちに示すことだった。彼らを説得するには経済性がキーだと気づいた私は、他よりも遥かに安く『The Tyrant King』をフィルム撮りで仕上げてみせた」

▲『狙撃者』の現場で誕生日を迎えたホッジス
 彼は続けて、2本のドラマ作品の脚本を執筆し、自ら製作・監督をつとめた。1本目はテムズTVの「Playhouse」シリーズの1篇として放映された『Suspect』(1968)。オール・ロケーションで撮影された、クロード・シャブロル風の心理サスペンスだ。そして2本目の『Rumour』(1969)は、野心的なジャーナリストがスキャンダルの暴露に挑み、破滅する姿をドライな演出で描く犯罪スリラー。これらの作品の成功が、『狙撃者』(1971)の監督オファーにつながるのである。


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