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dead simple
Pulp
『悪の紳士録』


▲欧州盤DVDジャケット
【スタッフ】
監督・脚本/マイク・ホッジス
製作/マイケル・クリンガー
撮影/ウサマ・ラウィ
美術デザイン/パトリック・ダウニング
編集/ジョン・グレン
音楽/ジョージ・マーティン

【キャスト】
マイケル・ケイン(ミッキー・キング)
ミッキー・ルーニー(プレストン・ギルバート)
ライオネル・スタンダー(ベン・ディヌッチオ)
ナディア・カッシーニ(リズ・アダムス)
リザベス・スコット(ベティ・チッポラ)
アル・レッティエリ(ミラー)
デニス・プライス(怪しいイギリス人)

[1972年イギリス映画/カラー/92分/ヴィスタ/モノラル/ユナイテッド・アーティスツ製作]
日本劇場未公開・TV放映


Story

 地中海のどこか。小説家のミッキー・キング(マイケル・ケイン)は多数のペンネームを使い分け、暴力とセックス満載の通俗小説を書き散らしていた。そんな彼のもとに、ディヌッチオ(ライオネル・スタンダー)と名乗るいかにも胡散臭い男から執筆依頼が舞い込む。高額の報酬と引き換えに、とある有名人の自伝を書いてほしいというのだ。つまり、ゴーストライターである。

 「連絡は追ってするから、まずは指定の場所へ」というあからさまに怪しい指示を受け、観光客に紛れてバス旅行に出たミッキー。そのうち使いの者がコンタクトしてくるはずだ。彼は隣に座ったミラー(アル・レッティエリ)という男が怪しいと睨むが、人違いだった。

 その夜、ホテルでミッキーと部屋を取り違えたミラーは、何者かに殺されてしまう。ミッキーはバスタブに浮かんだミラーの死体を発見し、自分が狙われていることに気付く。だが翌朝、死体は消えていた。

 名所めぐりの最中、ミッキーはセクシーな美女リズ(ナディア・カッシーニ)と出会う。彼女こそが依頼主のよこした使者だった。2人はディヌッチオと合流し、孤島にある館へと向かう。


 そこで待ち受けていたのは、往年のギャング映画スター、プレストン・ギルバート(ミッキー・ルーニー)。背は低いがプライドは高く、虚栄心に凝り固まった男だった。悪い予感を強くするミッキーだったが、いまさら金をドブに捨てるわけにもいくまい。プレストンが言うには、死んだミラーは敵の回し者だったらしく、邪魔者が消えたことを彼は素直に喜んだ。


 明くる日、プレストンは海辺で自分の誕生パーティを催す。出席者の中には彼の元妻で、今はファシスト政党の大物と結婚したベティ(リザベス・スコット)の姿もあった。プレストンは給仕になりすまし、客のテーブルに悪戯して大はしゃぎ。そこに神父が現れ、いきなり彼を射殺。毎年のことながら凝った余興に、招待客はやんやの喝采を贈る。だがミッキーだけは違った。サイレンサー付きの銃を構えた神父は、あのミラーだったのだ!

 からくも銃弾から逃れたミッキーは、自分の身を守るためにも真相究明に乗り出す。なぜプレストンは殺されたのか? どうしてゴーストライターの俺まで標的に? そこには隠された過去の秘密があった……。


About the Film

■出色の快作コミック・スリラー
▲作家役がハマっているM・ケイン
 『PULP(TV放映題:悪の紳士録)』は、『狙撃者』(1971)をヒットさせた3人のマイケル──製作者マイケル・クリンガー、監督マイク・ホッジス、そして主演マイケル・ケインが立て続けに放った、コミック・スリラーの快作である。原題の意味は、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994)でもおなじみ、安物のパルプ紙で刷られた低俗小説・雑誌のこと。地中海のとある島を舞台に、ひとりの娯楽小説作家が次々と怪しい人物たちに遭遇し、否応なくトラブルへと巻き込まれていく姿を描く。ウィットに富んだ演出と、サスペンスフルなストーリー展開が映画ファンの心をくすぐる傑作だ。

 撮影が行われたのはマルタ島。自然の生み出したシュールな光景が、独特の効果を上げている。当初はイタリアでの撮影が予定されていたため、スタッフ&キャストは英・米・伊混合チームの趣。ハリウッド黄金時代の大物俳優たちと、70年代ヨーロッパ映画人の競演も本作の見どころだ。

■映画ファン垂涎のキャスティング
 今回、マイク・ホッジスは自ら脚本も手がけ、最初からマイケル・ケインを主演に想定し、魅力的な主人公像を創り上げた。知的でひねくれ者で、ちょっとお茶目な女たらしの小説家ミッキーのキャラクターは、『狙撃者』のジャック・カーター以上にハマっている。ほとんど笑顔を見せないというのも、コメディの主人公として大事なポイントだ。

▲全てを食う「怪物」M・ルーニー
 脇を固めるキャストの豪華さにも注目。まず、主人公に自伝の代筆を依頼する元スター俳優ギルバートを演じるのは、ミッキー・ルーニー。人なつっこい風貌とコミカルな芝居で、MGMミュージカル黄金時代の看板役者として活躍した彼を、ジェームズ・キャグニーのようなギャング映画のスターに設定するという発想が面白い。実際、ルーニーはドン・シーゲル監督の『殺し屋ネルスン』(1957)などの暗黒映画で主役を張ってもいる。本作『PULP』では、傲慢で狂騒的なナルシストのキャラクターを、嬉々として(半ば素で?)怪演。

 いかにも本物のオールド・ギャングという迫力を漂わせるディヌッチオを演じるのは、ニューヨーク出身の怪優ライオネル・スタンダー。ロマン・ポランスキー監督の『袋小路』(1965)における傍若無人な悪党役が印象的だが、本作でのユーモラスな演技もまた魅力的。劇中ではかわいい水着姿も披露している。

 そして、ハンフリー・ボガート主演の『大いなる別れ』(1947)などに出演した往年のフィルムノワール女優、リザベス・スコットも出演。スマートに年齢を重ねた女性ベティ・チッポラ役を颯爽と演じ、新たな魅力を放っている。本作は彼女にとって、実に15年ぶりの映画出演作となった。

▲ガハハ親父のL・スタンダー
▲麗しのヒロイン、N・カッシーニ

 セクシーなヒロイン、リズをキュートに演じるのは、『スタークラッシュ』(1978)のナディア・カッシーニ。出演作の多くは70〜80年代のイタリア艶笑喜劇で、特に目立った代表作はないものの、この映画での彼女は最高にコケティッシュで魅力的だ。前作『狙撃者』のジェラルディン・モファット同様、初期のホッジスは女の趣味がすこぶるいい。抜群のスタイルの良さを強調した70年代ファッションも見もの。

 ミステリ愛好家の観光客、ミラー役のアル・レッティエリは、もちろん『ゴッドファーザー』『ゲッタウェイ』(共に1972)の悪役としておなじみの強面俳優。最初は一般人のような感じで登場するので「オヤ?」と思うと、やっぱり後で……という楽しい趣向。二面性をトリッキーに演じて(コスプレもあり)美味しい役だ。

 M・ケイン相手に「不思議の国のアリス」を諳んじる謎のイギリス人観光客を演じるのは、名脇役デニス・プライス。近年では『ヴァンピロス・レスボス』(1970)や『三大怪人・地上最大の決戦』(1972)といったジェス・フランコ監督作品の常連俳優として知名度が上がってきているが、本作ではそれらの怪作群でもお目にかかれない、エキセントリックな名演技を見せつけている。

■洒落た「画」と「音」の魅力
▲いちいち魅力的なビジュアル
 絶妙なキャスティング、ストーリーの面白さもさることながら、『PULP』は映像と音楽の面でも楽しませてくれる。シンメトリカルな構図を多用し、適度にスタイリッシュで洒落たビジュアルを創り出したのは、撮影監督のウサマ・ラウィ。本作で劇場長編デビューしたバグダッド出身の才人である。『PULP』以降は『ゴールド』(1974)『パワープレイ』(1978)『バトル・オブ・シリコンバレー』(1999/TVムービー)などを手がけている。

 衣装デザインは、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『暗殺の森』(1970)や、マルコ・フェレーリ監督の『最後の晩餐』(1973)を手掛けた、ジット・マグリーニが担当。N・カッシーニの小悪魔系ファッションから、葬礼の喪服まで、様々なシチュエーションで見事なセンスを発揮。コスチューム面でも目に楽しい映画に仕立てている。

 トリックに満ちた物語を巧みな編集でシンプルに繋いだのは、ジョン・グレン。『女王陛下の007』(1969)や『マーフィの戦い』(1971)などで名エディターとして活躍し、後に『007/ユア・アイズ・オンリー』(1971)で監督デビューも果たした才人である。

 音楽は、ザ・ビートルズのレコードプロデューサーとして知られる、ジョージ・マーティンが作曲。60〜70年代のイタリア映画を思わせる、軽妙洒脱なテイストが楽しい名スコアだ。メインテーマ2曲を収録したシングル盤が公開当時に発売されたものの、それ以降は再版されず、アルバムも出ずじまい。まさに幻の名作である(願・CD化)。

■不幸な公開、遅すぎた発見
▲公開時のポスター
 ハイクオリティな内容と、批評家筋からの高い評価にもかかわらず、公開時の興行成績は『狙撃者』に比べると寂しいもので、あっという間に劇場から引き上げられてしまった。後に一部でカルト的な評価を得るようにはなるが、正直言って今に至るも「忘れられた佳作」扱いだ。そもそもこのタイトルなのだから、『パルプ・フィクション』公開時に真っ先に思い出されてもよかったはずなのに(タランティーノが本作のファンでないわけがない!)。

 2004年、『ルール・オブ・デス』(1998)の成功と『ブラザー・ハート』(2003)の公開を機に、ヨーロッパではMGM社からDVDが初リリースされた。本編のみの収録で、4カ国語音声(英・独・伊・西)と4カ国語字幕(仏・蘭・デンマーク・ギリシャ)の入った国際仕様盤。そんなのいいから予告編とかスチルギャラリーとか付けてよ! とも思うが、高画質で観られるだけでも喜ぶべきだろう。シンプルなディスク仕様にもかかわらず、レビューは軒並み高評価。まさしく作品自体の力がなせる技だ。

 日本では劇場未公開。『悪の紳士録』といういまいちなタイトルでTV放映されたこともあるが、ソフト化はされていない。


Production Note

■波に乗るスリー・マイケルズ
▲『狙撃者』とは180度違うキャラクター
 『狙撃者』を成功させて間もなく、クリンガー、ホッジス、ケインの3人はすかさず第2作に取り掛かった。彼らは当初「3M」というプロダクション名を名乗っていたが、ポストイットで有名な同名企業からクレームが来たため、途中で「Three Michaels」に改名した。実際の映画本編では、「Klinger/Hodges/Caine Production」とクレジットされている。

 ホッジスが考えていた企画は、主演のマイケル・ケイン本人のキャラクターに合わせたオリジナルストーリーだった。彼は製作会社からの注文や制約を受けることなく、6ヶ月かけて第1稿を書き上げた。クリンガーとケインはそのシナリオを気に入り、出資元のユナイテッド・アーティスツも好反応を見せたため、『PULP』の企画は正式にスタート。

ホッジス「コメディが作りたかったんだ。ちょうど『狙撃者』の対極にあるような明るい、暴力的じゃない作品をね。まあ、私のユーモアセンスは常に若干シュールでブラックなんだが。人を笑わせるのは普段から好きだから、今度は映画でもそれがやってみたかった。『狙撃者』にもダークな笑いの要素はあるが、なかなか気づいてもらえず、観客の笑いを欲していたんだ」

■インスピレーション
 オリジナルストーリーを書く上でホッジスの脳裏に浮かんだのは、イタリアで実際にあった出来事だった。

ホッジス「元々の始まりは定かではないが、多分、イタリアの地方選挙でネオファシスト政党に大勢の人々が投票した、というニュースを聞いたのが発端だと思う。戦慄したね。私は世間知らずにも、ファシズムなんて第2次世界大戦で滅びたと思っていたんだ。強制収容所で何が起きていたのか、誰も知らないのかね? 私は13歳のときに新聞記事をスクラップして、絶対にドイツ人とは喋らないと誓ったんだ(笑)。だがイタリアのファシストは、ナチに比べると陽気でコミカルで、オペラティックな印象がある。ともかくそれが『PULP』の始まりだった」

 そして、もうひとつ彼が参考にしたのが、やはりイタリアで1950年代に起こった出来事……俗に「モンテシ・スキャンダル」と呼ばれている事件である。

▲カレン・ピンカス著「Montesi Scandal」
 1953年、4月のある朝。ローマ近郊の海岸に、一人の少女が遺体となって打ち上げられた。彼女の名はウィルマ・モンテシ。警察は事故による溺死と判断したが、人々はそれを信じなかった。ビーチでは毎晩のように、有力政治家の息子や映画スターの乱痴気騒ぎがおこなわれていたからだ。裁判は長期化し、駆け出しの女優から汚職政治家、さらにバチカン関係者までが法廷に引っ張り出され、マスコミは熱狂的にその様子を伝えた。目撃者を騙る売名行為もあとを絶たず、10年以上も審理は続き、メディアはそれを逐一センセーショナルに書き立てた。しかし、ついに真相は解明されないままに終わる。それはかの「パパラッチ」をイタリアの文化として定着させた一大スキャンダルであり、フェリーニの『甘い生活』(1960)にもインスピレーションを与えた事件だった。

 また、引退してヨーロッパに住み着いたギャングスター俳優という設定には、マフィアとの繋がりを糾弾されてイギリスに逃亡し、ロンドンのカジノに身を寄せていた元映画スター、ジョージ・ラフトのイメージがあったという。

■シナリオ・ハンティング
 ホッジスはリサーチのため、北イタリアのプレダッピオへ赴き、ムッソリーニの墓地を訪ねた。

ホッジス「そのときの経験は、劇中に出てくるジュークボックス付きの墓碑というアイテムに活かされている。ムッソリーニの墓にも、ボタンを押すと彼の演説の一部が聞けるという、ほぼ映画の設定そのままの機能が付いていたんだ」

 そして脚本を書き始めるや否や、ホッジスはこれまでにないタイプのストーリー作りに苦戦を強いられる。

▲『悪魔をやっつけろ』の一場面より
ホッジス「他の作品はすべて一直線の物語形式だが、『PULP』では新しいことを試してみたくてね。偶然が偶然を呼ぶ展開の面白さを楽しんではいたが、一方で常に信憑性のリミットを気にしていなければならなかった。きつかったよ。そういう意味で、ジョン・ヒューストン監督の『悪魔をやっつけろ』(1954)からの多大な影響は認めざるを得ない。ハンフリー・ボガート、ジーナ・ロロブリジーダ、ジェニファー・ジョーンズ、ピーター・ローレといった名優たちが揃って出演していて、とにかく変テコで、ウィットに富んだシーンが満載の素晴らしい作品なんだ。興行的には散々だったがね。当時それを劇場で観ていたのは、私くらいのものだった。脚本を担当した作家のトルーマン・カポーティも、やはり相当苦労したらしいよ」

■スタッフの一新/ロケ地の変更
 ホッジスは『PULP』を前作とは異なるタッチの作品にするため、全く新しい顔ぶれをメインスタッフに集めた。

ホッジス「奇妙なことに、支配者層の汚職や、少女への虐待といったストーリーの要素は、『狙撃者』と共通していた。だが、作品のスタイルはまるで違う。そこで、撮影監督も美術デザイナーも、編集者も作曲家も、そして衣装担当もすべて変えたんだ。撮影のウサマ・ラウィとは以前、私が編集者のとき、一緒にCMを作ったことがあった。美術のパット・ダウニングは、私のTV作品『Suspect』『Rumour』でも共に仕事をしている。ほとんど皆、長編映画は初めての面子ばかりだったと思うよ。衣装のジット・マグリーニを除いてはね……あの『暗殺の森』を手がけた素晴らしいデザイナーだ」

 元々、本作はイタリアで撮影をおこなうはずだったが、全てのロケ予定地で地元のマフィアがショバ代を要求したため、進行が困難になってしまった。ここで揉め事など起こそうものなら、殺し屋でも送り込まれかねないと思ったホッジスは、急遽クリンガーに連絡し、ロケ地の変更を申し出た。ホッジスは自分が別荘を持っているマルタ島での撮影を提案し、短い期間で素早くロケハンを済ませた。

 土壇場の変更から4週間後の1971年2月、マルタ島を舞台に『PULP』の撮影はスタートした。

■M・ケインの新しい魅力
 マイケル・ケイン演じる小説家ミッキー・キングのキャラクターは、完全なる当て書きである。ホッジスは彼のコメディセンスに全幅の信頼を寄せていたし、ケイン自身も『PULP』の中でその才能を存分に発揮した。また、『狙撃者』の現場で明らかになった無免許(!)という一面も、ギャグとして映画のクライマックスに取り入れられている。

 しかし、マルタ島での撮影は、ケインにとって精神的にこたえるものだったらしい。


ケイン「私は緑の木々や庭園を見ていると、心が落ち着くんだ。でもこの島の景色ときたら、見渡す限り草木1本生えておらず、土しかない。頭がおかしくなりそうだったよ」

 そんな不満もこぼしつつ、暇つぶしに行われた地元サッカーチームとの試合では、しっかりラインズマン(審判)を担当。結果は6―0で『PULP』チームの完敗だった。

 また、撮影から数ヶ月経ったダビング作業でも、ケインは見事にひねくれた三流小説家のキャラクターを再現し、素晴らしいボイスオーバーを吹き込んだ。

■恐るべき名優たち
 主演俳優の不満をよそに、他のクルーはマルタ島での日々を満喫した。だが、ホッジスは劇場映画2作目にして、ミッキー・ルーニー、ライオネル・スタンダー、リザベス・スコット、そしてデニス・プライスといった名だたる俳優たちを相手に演出しなければならなかった。

 中でもミッキー・ルーニーの存在は圧倒的だった。映画のキャラクターを地で行くような彼のエキセントリックな行動には、監督もかなり翻弄されたという。

▲M&M(ケインとルーニー)
ホッジス「ミッキー・ルーニーはとてつもない人物だ。そして何しろ変わり者だった。私たちが役柄に関して話し合ったことは一度もない。彼はただ現場に現れ、衣装に着替え、素晴らしい演技を披露する。それだけだ。私はギルバートを怪物的な人物として脚本に描き込んだが、ミッキーはそれをさらに怪物的に演じてのけた。撮影に入ってすぐに気づいたことだが、ミッキーの出ている場面ではリハーサルの段階からカメラを回しておかなければならない。何しろ一度として同じ演技をしないんだからね。彼は時間が経つと、すぐに新鮮なエネルギーを失って、機械的な芝居しかしなくなる。他の役者のクロースアップを撮るときは、タップダンスしたり、ドラムを叩く真似をしているし(笑)。とにかく疲れたよ」

 ホッジスはルーニーをギルバート役に獲得するため、ユナイテッド・アーティスツと長い戦いを繰り広げた。

ホッジス「彼が演じたギルバートは、ヒトラーやムッソリーニのごとく背が低くなければならない。それに、ジェームズ・キャグニーに代表される往年のギャングスター俳優のようにね。身長に関するギャグも多く書かれていた。私は最初からルーニーを配役することを主張したが、UAはまるで意図を汲まない提案ばかりしてきた。いちばんひどかったのはヴィクター・マチュアだ。彼は身長6フィート(183cm)もあるじゃないか! そのうち、UAの連中が本当にシナリオを読んでいるのかも怪しくなってきたよ」

▲『PULP』のL・スコット(左)
 かつての映画青年ホッジスが望んだもうひとつの夢が、往年のノワールヒロイン、リザベス・スコットの起用であった。しかし、彼女はエルヴィス・プレスリー主演の『さまよう青春』(1957)以来、映画界からは引退状態にあり、映像の現場からも7年間ほど遠ざかっていた。ホッジスは渋る彼女をしつこくなだめすかし、なんとか出演承諾にこぎ着けた。

ホッジス「リザベス・スコットを演出するのも、別の意味で難儀だった。最初のシーンを撮ったとき、彼女の持っていたティーカップとソーサーの触れ合う音がずっと聞こえていたんだ。手が震えてね。私は頻繁に彼女の自信を奮い立たせなければならなかった。でも、リザベスの声と存在感は、かつて自分が愛したハリウッド映画の記憶を鮮やかに思い出させてくれた。素晴らしかったね」

▲若き日のL・スコット

■苦心の再編集
 『PULP』のポストプロダクションは難航した。最初に雇われた編集者と、監督ホッジスの意見が完全に食い違ったからだ。

ホッジス「彼はまるでアートフィルムのように作品を繋いでしまった。もちろん『PULP』はそういう映画じゃない。私たちは議論を重ねたが、結局は彼からフィルムを取り上げるほかなかった。それが唯一、私がスタッフをクビにした経験だ。やりたくはなかったがね」

 そして、クリンガーが代わりに連れてきた新しい編集者が、後に『007』のシリーズ5作品の監督も務めた、ジョン・グレンである。当時、イギリスは深刻な産業不安のさなかにあり、ストライキなどで何の前触れもなしに電気が止まることもざらだった。つまり、通常の編集作業もままならないということである。

グレン「マイクに“どれぐらいかかる?”と訊かれたので、私は“最低でも1ヶ月はかかる”と答えた。我々は週に3日しか働けず、その間にも電力が落ちてしまえば、パブに行って飲むぐらいしか手がなかった。それでもこの仕事を受けたのは、マイクがいい奴で、私が彼の仕事を心から尊敬していたからだ。しかし、前任者のおかげでフィルムはひどい散逸状態だった。仕方なく全てのラッシュを焼き直し、始めからやり直したのさ。最終的にはうまくいったがね。しかし、ミッキー・ルーニーを途中退場させてしまうのは、なんとも勿体なかった。彼の存在はまさしく火花散る導火線そのものだったからね」

 作品は完成し、プロデューサーのクリンガーはホッジスの成し遂げた仕事に満足した。

クリンガー「我々は『PULP』を、1975年の観客に向けて作った。私は常に時代の先を行く男だ。流行の後追いは性に合わん。トレンドそのものを生み出すのは好きだが」

■まさかの大コケ
 クリンガーの言葉通り、1972年当時の観客に『PULP』は受け入れられなかった(そして現在に至るまで)。作品自体は掛け値無しの快作であったにもかかわらず、である。

 映画はフィラデルフィアでの壊滅的なオープニングを皮切りに、各地で冴えない興行成績を連発。しばらく後、ニューヨークにオープンした名画座が「陽の当たらない名画」として本作をこけら落とし作品に選び、にわかにマスコミの注目を集めたこともあった。が、上映が1週間限定だったため、レビューが出そろった頃には終わっているという体たらくだった。

 作品に絶大な自信を持っていたクリンガーは、『PULP』が受け入れられなかった理由を次のように語る。

クリンガー「ホッジスは全てを宙ぶらりんのまま終わらせてしまった。人生とはそういうものだろうが、映画の終わり方としては相応しくなかったと思う。観客はなんとなく騙された気持ちになったが、批評家たちはそのエンディングを気に入った」

 ホッジスの言によれば、『PULP』は一部の小説家たちの間で人気があるらしく、『クラッシュ』の作家J・G・バラードもその一人だという。

ホッジス「フランスの極右政治家ジャン=マリー・ル・ペンや、イタリア大統領ベルスコーニの台頭を予見していたというんだ。確かに、ベルスコーニは劇中に出てくるファシストの大物、チッポラによく似ているけどね」

▲驚きの表情を隠せないD・プライス

Review

 とにかくもう「必見」としか言えない傑作。俳優も、音楽も、ロケーションも、撮影も、何もかも素晴らしい。これを観たおかげでマイク・ホッジスの魅力にとりつかれ、こんなサイトまで立ち上げる羽目になったという、それくらい面白い作品なのだ、『PULP』は。

 というか、この題名とキャストで観たくならない方がおかしい。

 『PULP』には、ホッジスの陽性の部分が最良のかたちで発揮されている。語り口の絶妙な巧さはもちろん、意地悪な視線や、シュールな曖昧さも、すべてが心地好い。このクオリティでそんな下らないギャグするか? みたいな感じもゴージャス。エンドタイトルが出る瞬間なんて、あんまりかっこよくて失神するかと思った。全編これ映画ファンやミステリファンなら思わずニヤリ、という瞬間の集積みたいな映画なので、幸福すぎてバカになっちゃわないよう気を付けなければならない(もうなってる)。

 シナリオの根底にあるのは「フィクションを司るはずの小説家が、三文小説じみたサスペンス劇に巻き込まれる」という構造の妙だが、それを最大限に活かすのが、全編に流れる主人公のシニカルで機知に富んだボイスオーバーだ。これが実に秀逸。台詞もいいが、マイケル・ケインの作家ぶりが意外と板に付いているのが大きい。

 『PULP』を観ると、ケインもホッジスもちょうど脂が乗り切っていたことがよく分かる。それなのにほとんど顧みられていないなんて……節穴か、と言いたい。確かにトリック・ミステリの部分では、説明不足で辻褄が合わない感じも受ける。だが、それぐらいは観客の推理や想像力に任せる態度も、映画には必要だ。

 現在、『PULP』を日本語字幕付きで観るチャンスはとても少ないと思うが、もうそんなことは気にしなくていい。英語力があろうとなかろうと、字幕なしで観た方が絶対に面白いから。辞書と首っ引きで頭グルグルになりながらだって、断然観る価値はあるのだ、『PULP』は。


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