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dead simple
A Prayer for the Dying
『死にゆく者への祈り』


【スタッフ】
監督/マイク・ホッジス
製作/ピーター・スネル、サミュエル・ゴールドウィンJr.
原作/ジャック・ヒギンズ
脚本/エドマンド・ワード、マーティン・リンチ
撮影/マイク・ガーファス
音楽/ビル・コンティ

【キャスト】
ミッキー・ローク(マーティン・ファロン)
ボブ・ホスキンス(マイケル・ダ・コスタ神父)
サミ・デイヴィス(アンナ)
アラン・ベイツ(ジャック・ミーアン)
クリストファー・フルフォード(ビリー・ミーアン)
リーアム・ニーソン(リーアム・ドチェッティ)
アリソン・ドゥーディ(シオバン・ドノヴァン)
カミール・コデュリ(ジェニー)

[1987年アメリカ=イギリス映画/カラー/108分/ヴィスタ/ドルビーステレオ/サミュエル・ゴールドウィン・カンパニー制作]
日本公開:1989年1月(東北新社配給)


Story

 IRA〈アイルランド共和国軍〉の闘士であり、天才的な銃の使い手であるマーティン・ファロン(ミッキー・ローク)。あるとき彼は、英国軍のトラックを狙った爆破工作を仕掛けるが、誤ってスクールバスを爆破してしまう。以来、罪の意識に苛まれた彼は組織から脱し、警察や軍はもちろん、同胞たちからも追われる身となり、ロンドンに身を隠した。

 そんなある日、ファロンは街を牛耳るギャングのボス、ジャック・ミーアン(アラン・ベイツ)から暗殺の仕事を依頼される。国外脱出用のパスポートを手に入れるため、厭々ながら仕事を遂行するファロンだったが、その現場をダ・コスタ神父(ボブ・ホスキンス)に目撃されてしまう。

 口封じのため、ファロンは「懺悔の内容は誰にも漏らしてはならない」というカソリックの掟を逆手にとり、懺悔室でダ・コスタに罪を告白する。ファロンの大胆で不信心な態度に怒るダ・コスタだったが、彼の内に秘められた純粋な魂に気づき、悔い改めるよう諭す。だが、ファロンは耳を貸さなかった。

 教会に出入りするようになったファロンは、ダ・コスタの姪で盲目の娘アンナ(サミ・デイヴィス)と出会う。2人はやがて愛し合うようになり、絶望と虚無に満ちたファロンの心にも、微かな希望が芽生えかけようとしていた。だが、ミーアンはダ・コスタ神父が殺人を目撃したことを知り、彼を始末するようファロンに迫る。やがてアンナにも魔の手が及び、怒りに燃えたファロンはミーアン一味に戦いを挑むが……。


About The Film

■ハードボイルドの金字塔
▲日本公開時の再版文庫本カバー
 映画『死にゆく者への祈り』は、『鷲は舞い降りた』『黒の狙撃者』などで知られるベストセラー作家、ジャック・ヒギンズの同名傑作小説を映像化した、ハードボイルド・アクションである。信義を捨てたIRAのテロリスト、マーティン・ファロンの生き様と死に様をサスペンスフルに描いた、哀愁とロマンの物語だ。原作小説はヒギンズの最高傑作とも謳われる人気作であり、著者自身、自作の中でもいちばん気に入っていると公言している。

 製作を手がけたのは、アメリカの老舗制作会社サミュエル・ゴールドウィン・カンパニー。同社の代表であるサミュエル・ゴールドウィン・Jr.と、『ウィッカーマン』『赤い影』(共に1973)などを手がけたピーター・スネルがプロデューサーを務めた。当初はフランク・ロッダムが監督・脚本を手がけるはずだったが、製作側と意見が合わずに途中降板。かつて『狙撃者』(1971)で犯罪アクション映画に新風を吹き込んだマイク・ホッジスが代打監督としてオファーされた。

 ホッジスにとって本作は、デビュー作『狙撃者』に連なるハードボイルド・ドラマであり、終生のテーマである「信仰」と「宗教」が重要なモチーフとなった物語でもある。

■俳優たちの魅力的な演技
▲ファロンを演じるミッキー・ローク
 主人公ファロンを演じるのは、自らこの役を熱望したというミッキー・ローク。『ナインハーフ』(1985)や『エンゼル・ハート』(1987)などで演じてきた色男的なイメージを払拭するかのように、暗い過去を背負った寡黙な男を抑えたトーンで力演。無駄を削ぎ落としたホッジスの簡潔な演出ともあいまって、孤独感と優しさを滲ませた孤独なテロリストの佇まいを意外なほど見事に表現している。

 ファロンと出会い、その魂を救おうとするダ・コスタ神父役には、『モナリザ』(1986)のボブ・ホスキンス。人間味あふれる表情で聖職者の苦悩と葛藤を演じつつ、元SAS(空軍特殊部隊)の隊員という設定で、見事な立ち回りも披露している。『長く熱い週末』(1980)以降はギャングやチンピラ役が多かった彼にとっては、イメージを一新する機会となった。

▲異様な迫力のA・ベイツ(左)と
狂った弟役のC・フルフォード
 そして、ファロンに仕事を依頼し、やがて彼の敵となるギャングのボス、ジャック・ミーアンを演じるのは、『まぼろしの市街戦』(1967)『ザ・シャウト/さまよえる幻饗』(1978)のアラン・ベイツ。葬儀社の良心的経営者としての顔を持ちながら、街の顔役として裏社会に君臨し、サイコパスの弟を溺愛する破綻した人物を、異様な迫力と説得力をもって演じている。

 ファロンに恋心を抱く神父の姪アンナを演じるのは、『ケン・ラッセルの白蛇伝説』(1988)のサミ・デイヴィス。盲目という設定で、悪辣なギャングに襲われて目にスプレーを吹き付けられるという場面も体当たりで熱演。ジャックの狂った弟ビリー役を強烈な個性で演じるクリストファー・フルフォードも印象的だ。

 また、『ダークマン』(1990)で世界的に注目される前のリーアム・ニーソンが、ファロンを追うIRAの元同胞役で出演している。そのパートナーである美しい女性兵士ドノヴァンを演じるのは、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)でヒロインを演じていたアリスン・ドゥーディだ。2人とも実際にアイルランド出身者である。

▲IRA兵士を演じるL・ニーソン(右)とA・ドゥーディ

■公開時の反応
▲オリジナルポスター
 熱烈なファンの多い原作だけに、本作は公開当時、ヒギンズ信奉者やハードボイルド愛読家から「格好だけのB級作品」「ミスキャスト」「ファロンの武器選択がヘン」等の不評を買った。一方、主演のミッキー・ロークのファンにとっては、また一味違った魅力を見せてくれる作品として好意的に受け入れられた(地味だけど、という注釈つきで)。

 ちなみに劇場公開・ビデオ化されたのは、ホッジスの編集したファーストカット版を製作会社が無断で再編集・再録音した108分の劇場公開版である(後に詳述)。このバージョンはホッジスにとって不本意なもので、彼は製作者たちに監督のクレジットを削除するよう要請したが、却下された。

 日本では東北新社の配給で、1989年に新宿・歌舞伎町のミニシアター「シネマスクエアとうきゅう」で公開された。ビデオ・LDはキングレコード=東北新社からリリース。欧米ではMGMからDVDが発売されている。


Production Note

■2度目の代打登板
 アメリカで『フロリダ・ストレイツ』(1986)の撮影を終え、帰英したホッジスを待っていたのは、ある話題作のピンチヒッター監督の依頼だった。かの有名なジャック・ヒギンズの代表的小説『死にゆく者への祈り』の映画化企画である。制作はアメリカにある老舗の映画制作会社、サミュエル・ゴールドウィン・カンパニー。

 プロジェクト当初、監督・脚本には『さらば青春の光』(1979)のフランク・ロッダムがあたっていた。が、彼の書いた脚本が凄惨な暴力描写を多く含むものだったため、プロデューサーが難色を示し、ホッジスにお鉢が回ってきたのだった。彼はロッダムの降板を「まったく正しい判断だ」と言う。

ホッジス「この作品は、暴力に背を向けて生きていこうとする男の物語だからだ」

 その頃、主演に決定していたミッキー・ロークは、すでに役作りを始めていた。俳優ならば誰もが心惹かれるであろう孤高のキャラクター、ファロン役を自ら志願して勝ち取った彼は、多大な労力を費やして作品に臨んだ。当時のインタビューで、ロークは本作について「これまでで最もハードな仕事だった」と語っている。

ローク「強烈なアイルランド訛りを3ヶ月も特訓し、寝る前にもベッドで2〜3時間、毎晩のように練習した。調査のためにベルファストにも1ヶ月滞在したよ。墓地を歩くと、墓標に刻まれた年齢が17〜19歳の墓があまりに多くて、気が滅入った。だけど自分で選んだ仕事だから、最後までやり通したんだ」

■高速プリプロ
 撮影開始までには4週間しかなかった。それ以上クランクインが遅れれば、ミッキー・ロークは映画に出演しないままアメリカに帰ることになり、それでもゴールドウィン側は彼にギャラを払わなければならない契約をしていたのだ。残された時間は少ない。ホッジスはロケーション、60人以上のキャスティング、そして脚本のリライトを、たった1ヶ月で完了させなければならなかった。だが、彼は見事にそれをやりぬいた。

ホッジス「どうして私がこんなリスクを背負い込んでまで、この仕事を引き受けたかというと、まず金の問題(元妻への慰謝料がまだ残っていた)、ミッキー・ローク(彼は素晴らしい俳優だろ?)、そして作品の主題が私の得意分野であるということ。それに、テレビ時代にはドキュメンタリーで葬儀屋の奇妙な仕事ぶりを面白く描いたこともあったし、私自身が信仰を捨てたカソリックだということもある」

 プロデューサーのピーター・スネルとサミュエル・ゴールドウィンJr.は、ホッジスが監督を引き受けてくれたことを大いに喜んだ。ホッジスは『フラッシュ・ゴードン』(1980)で培った経験を生かし、ほぼ本能任せでスピーディに準備を進めていった。まずアラン・ベイツとボブ・ホスキンスに脚本を送り、乗り気ではない2人を説き伏せ、それぞれ葬儀屋を営むギャングとカソリックの神父に配役。当時のイメージでは、明らかに2人が演じる役柄は逆であり、彼らも最初はそこで戸惑ったようだ。さらにホッジスは脚本から暴力描写を最低限にまで刈り込み、ミッキー・ローク演じる主人公の性格描写を表現する余地を、十分に作った。

ホッジス「ミッキーは体験型の役者だ。それまでの彼の仕事を見れば分かるが、その演技スタイルは痛みを伴うものでもある。この作品でも、ファロンは刺青をしているという設定があり、いくらでもメイクで代用できるだろうに、彼は実際に入れると言い張った。不幸にも、それは後で腐敗性の傷になってしまったらしいんだが、そのときはそんなこと何も知らなかった。まるで映画の行く末を暗示しているようだったね」

■順調な撮影と、波乱の予兆
▲撮影中の風景
 撮影は約3ヶ月間、イースト・ロンドンのシルヴァータウンで、1986年の12月まで行われた。ホッジスは期限も予算も、決められた枠内にきっちりと収めて、現場を乗り切った。

ホッジス「私はこの映画の撮影をとても楽しんだ。ミッキー・ロークは素晴らしかったね。彼のベルファスト訛りは完璧だった」

 だがアメリカ側のプロデューサーたちはロークの演技が気に入らず、ローク自身も彼らが撮影現場に立ち入ることを好まなかった。ホッジスはFAXで送られてきたアメリカ側の注文を見て、愕然とした。主演俳優の交代を示唆していたのだ。

ホッジス「彼らはミッキーの素晴らしい演技を“無気力”と評していた。もちろん主人公は内面的に崩壊し、信義を失ってしまった人物なんだから、そうあって然るべきなんだよ。その上で表現された繊細な演技を、プロデューサーたちは全く見逃していた。彼らはファロンのキャラクターを、マフィアのヒットマンか、クンフー映画の主人公のように考えていたんじゃないのかね?」

■監督不在の再編集・公開
 スケジュールどおりに撮影を終え、3ヶ月のポスプロ期間を経て、映画『死にゆく者への祈り』は1987年2月に完成。フィルムはL.A.へと送られた。

ホッジス「誰にとっても困難な仕事だったが、なんとかやり遂げた実感があった……またしても、それは間違っていたがね。私たちが作っていたのは、手榴弾みたいなものだった。爆発したのは数ヶ月先になったが」

 ゴールドウィンJr.は作品の出来に難色を示し、再編集作業を断行。カッティングは普通のアクション映画のようにそつなく、宗教と信仰への言及は削られ、ジョン・スコットの演奏したパイプオルガンの音楽は、ベタベタに感傷的なアイリッシュ風スコアに差し替えられた。監督のホッジスには一言も告げず。

ホッジス「1987年7月、自分の編集した作品をL.A.に送ってから5ヵ月後、私はとうとうそのバージョンを目にした。それは完璧に再編集され、音楽も音響効果も全て差し替えられた代物だった。私が映画に込めたニュアンスは消し飛んでいた……作品のペースは、テレビの連続ドラマのような通俗的なものにされていた。最悪だよ。もはやそれは私の作った映画でもなんでもなかった。それによって、役者と監督の信頼関係も――この場合はボブ・ホスキンスとアラン・ベイツの間に築いたものも、失われてしまったんだ。特に、ダ・コスタ神父のキャラクター描写は最大の被害を被っていた」

▲撮影現場にて。ホッジスとローク
 変わり果てた作品の姿を見て、ホッジスは自分の名前をクレジットから外すように要請した。が、製作のピーター・スネルはこれを却下。ホッジスはマスコミを通じて彼らの仕打ちを公然と非難した。おかげで、ファーストカット版がIRAを擁護する内容だったためにカットされたのではないかというデマも流れたが、ホッジスはこれを否定した。

ホッジス「公の場で発言した後、業界では私の言い分など知ろうともしなかった。自分の作ったフィルムを守ろうとすれば、“あいつはやりにくい監督だ”とレッテルを貼られてしまう。その戦いに情熱を傾ければ傾けるほど、だんだん打たれ弱くなっていくんだ。80年代を通して私が学んだのは、そういうことさ」

 ゴールドウィン作品の権利は現在MGMが管理しており、どこかの倉庫の中には『死にゆく者への祈り』のオリジナル版が眠っているはずだという。ホッジスはDVDでそのバージョンを復活させたいと考えているが、今のところ実現していない。

ホッジス「もし今、『死にゆく者への祈り』のファーストカット版を復活させるとして、そこにサム・ゴールドウィンJr.の名前を残しておくべきだろうか?」

Review

 ジャック・ヒギンズの小説『死にゆく者への祈り』は、言うまでもなく完璧な傑作である。豊かなストーリー性、歯切れの良いアクション描写と共に、魂に傷を負った人々の哀しみを美しい筆致で捉えた、珠玉のロマンだ。映画版では、原作の簡潔で無駄のない構成と設定を基にしつつ、いくつかの変更がなされている。

 まず違うのは、原作で常に降りしきる「雨」が省略されていること。作品全体を覆う暗いトーンを形作る大きな要素だが、映画ではさすがに全編雨を降らすわけにはいかず、割愛されている。

 映画はファロンが誤ってスクールバスを爆破してしまうシーンから始まるが、原作は回想として述べられるだけで、直接の記述はない。オリジナル版での編集が気になるところだ。ファロンを追うIRAの男女は、映画オリジナルのキャラクター。悪くないアイディアだが、後半から特に機能していないのが残念である。

▲原作にはない遊園地デートの場面
 小説では、ファロンとアンナは遊園地に行ったりせず、その関係もプラトニックなまま。映画の方は、ビジュアル的な見せ場を作るためにラブストーリーの部分を強調したのだろう。アンナがビリーに襲われるシーンも、原作はそれほどねちっこくない。その他、刑事と神父の絡みや、ミーアンの部下たちとファロンの対決の舞台など、大小様々な相違点がある。

 だが最も違うのは、やはり宗教的確執のディテールだ。まず前提としてある「ロンドンに教会を持つカソリックの神父が、元IRAの要注意人物と接触する」ということの緊張感を始め、そうしたニュアンスが公開バージョンからはすっぽり抜け落ちている。ダ・コスタ神父の過去にもさほど言及されないので、従軍経験者の彼が抱える深い闇も、掘り下げ不足と言わざるを得ない。もっともそれは、公開版のアメリカナイズされた編集のせいかもしれないが。

 オリジナル版は公開版とはまったくニュアンスの違うものらしく、未見なのでどれほど印象が変わるのかは判断しかねるが、原作ファンが納得できるかどうかは、また別問題だろう。それはあくまでも“マイク・ホッジスの映画”になっているだろうから。

 でも個人的に、これがいちばん最初に観たホッジス作品なので(当時は小学生だったので監督の名前もまるで意識してなかったが)、あまり悪く言う気になれない。公開版について言えば、原作を意識しなければ、そつなくまとまった佳作として観られる。芸達者ぞろいの俳優たちの演技もみな素晴らしい。製作会社が付け足したビル・コンティの勇壮で甘く哀切なアイルランド音楽も、これはこれで印象的である。


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