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Black Rainbow
『ブラック・レインボウ』


【スタッフ】
監督・脚本/マイク・ホッジス
製作/ジョン・クェステッド、ジョフリー・ヘルマン
撮影/ジェリー・フィッシャー
美術デザイン/ヴォイテク
編集/マルコム・クック
音楽/ジョン・スコット

【キャスト】
ロザンナ・アークェット(マーサ・トラヴィス)
ジェイソン・ロバーズ(ウォルター・トラヴィス)
トム・ハルス(ゲイリー・ウォレス)
マーク・ジョイ(ロイド・ハーレイ)
ロン・ローゼンサル(ワインバーグ警部)
ジョン・ベネス(テッド・サイラス)
リンダ・ピアース(メアリー・クロン)

[1989年イギリス映画/カラー/ヴィスタ/103分/ドルビーステレオ/ゴールドクレスト製作]
日本公開:1990年6月(東京テアトル配給)


Story

 マーサ・トラヴィス(ロザンナ・アークェット)は若く美しい霊媒師である。彼女は父親のウォルター(ジェイソン・ロバーズ)と2人で、アメリカ南部〜中西部の信仰深い地域を回り、降霊ショーを開いていた。

 マーサの能力は本物だった。彼女は夢見るような口調で、死後の世界は幸福と安らぎに満ちた場所であると説く。そして、その口を通して伝えられる死者の言葉は、愛する者を喪った人々の悲しみを癒した……。

 だが、彼女自身の人生は荒みきっている。旅から旅の生活の中で、いたずらに若さを浪費し、友人も恋人もなく、旅先で出会った行きずりの相手と寝ることだけが唯一の慰め。何より重荷だったのは、彼女の力に依存し続ける、飲んだくれの父親への愛憎だった。

 そして、彼女の「時計」は狂い始める。

 寂れた町のコミュニティホールで開かれた降霊会で、マーサは客席にいた女性の夫の霊を口寄せする。だが、彼女の夫は「まだ」死んでいなかった。今は家でテレビを見ているという。ウォルターは非礼を詫びるようマーサに詰め寄るが、彼女はそれを頑なに拒んだ。

 その夜、女性の夫は自宅で何者かに銃撃され、妻の眼前で命を落とす。

 事件記者のゲイリー(トム・ハルス)は、数時間前に彼の死を予見していた霊媒師の存在を知り、マーサに接近する。成り行きで一夜を共にしたゲイリーは、不幸な人生を歩む彼女を救おうとするが、マーサにとっては一夜の相手であるに過ぎなかった。

 次の町で開いた降霊会でも、マーサは死んでもいない人々の霊を次々に呼び寄せてしまう。観衆から浴びせられる激しい罵声。翌日、町の工場で大事故が起き、大勢の死傷者が出た。「魔女」と罵られるマーサ。ずたずたに引き裂かれた彼女の心は、もはや限界に近づいていた……。

 その頃、暗殺や大事故を予見した彼女の口を封じるべく、企業に雇われた殺し屋(マーク・ジョイ)が町に到着する。



About The Film

■ホッジス入魂の傑作
 不遇の80年代に落とし前を付けるがごとく、『PULP』(1972)以来17年ぶりのオリジナル作品として放った、マイク・ホッジス入魂の傑作。ロザンナ・アークェット演じる孤独な女性霊媒師を主人公に、オカルティックなサスペンスドラマが、陰鬱な映像美で描かれる。

 シンプルかつツイストのきいたプロット、愛憎劇としての見応えなど、ホッジス演出の真骨頂とも言うべき力強さに溢れた作品である。アメリカ・ノースカロライナ州にロケしたセピア色の町並み、独特の空気感も見どころ。

■魅力溢れるメインキャスト
▲ヒロインを演じるR・アークェット
 主演のロザンナ・アークェットは、絶望と諦観を湛えたマーサのキャラクターを抑えた演技で見事に体現。ヘヴィーな役柄ながら暗い印象だけに陥らないのは、自嘲的な知性と、コメディエンヌとしての才能がなせる業だろう。愁いを帯びた表情は、彼女独特の色香をさらに際立たせる。劇中で見せる美しいヌードも印象的。

 80年代にはジョン・セイルズやマーティン・スコセッシ、スーザン・シーデルマンといったインディーズ作家たちのミューズだった彼女にとって、『ブラック・レインボウ』は演技派としての代表作といえる。

 娘に依存する自堕落な父親ウォルターを味わい深く演じたのは、『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970)のベテラン俳優、ジェイソン・ロバーズ。年老いた酔いどれの哀愁を漂わせつつ、どこか放っておけない魅力も匂わせる。まさに名優の存在感だ。新聞記者ゲイリーを演じる『アマデウス』(1986)のトム・ハルスも、この父娘の強烈なカップリングの前ではかすんで見えるが、映画の狂言回し的なキャラクターを好演している。

▲かっこよすぎるメインキャストの顔ぶれ


■熟練のスタッフ
 撮影を担当したのは、英国出身のジェリー・フィッシャー。バイブルベルトの朽ちゆく町並みを、湿り気を帯びた質感で捉えた映像が素晴らしい。降霊会の場面における、流麗でドラマチックなカメラワークも見どころだ。ホッジスとは後にTV作品『Dandelion Dead』(1992)でも組んでおり、その他に『できごと』(1967)『ジャガーノート』(1974)など、錚々たるタイトルを手がけているベテランである。

 美術を担当したヴォイテクは、ホッジスと4作品でチームを組んだポーランド出身のデザイナー。特有の地域色を、神秘性と共に見事に造形化している。恐怖を盛り上げるスリリングな音楽を手がけたのは、ジョン・スコット。彼は、幻のディレクターズカット版『死にゆく者への祈り』(1987)でも、パイプオルガンによる宗教的なスコアを作曲しており、本作ではゴスペルが印象的に使われている。

■ジャンルを逸脱したストーリー
 無宗教主義を貫くホッジスだが、スピリチュアルな存在への関心は強く、『ブラック・レインボウ』にはそれがもっとも色濃く表れている。一方で、環境破壊や企業犯罪といった社会的テーマを大胆に取り込み、全編に終末感と厭世的なムードを漂わせる。本作はオカルトスリラーのかたちをとった、きわめて悲観的なエコロジー考察でもある。

 濃密なドラマ、内包された様々なテーマなどにおいて、『ブラック・レインボウ』は当時あった凡百のジャンルムービーからは明らかに逸脱していた。スペインのシッチェス国際ファンタスティック映画祭では、主演女優賞と脚本賞を受賞。ポルトガルのオポルト国際映画祭(ファンタスポルト)では、主演女優賞と作品賞を勝ち取っている。

■公開・ソフトリリース

▲イギリス盤DVDジャケット
 不運なことに、アメリカでは配給会社ミラマックスの経済的事情で劇場公開を見送られ、ケーブルTVで放映された後にビデオ・LDがリリースされた。イギリスでも同様の事情で、短期間だけの上映に終わった。高い評価を受けたにもかかわらず、いまだに作品の知名度は低いままである。

 日本では、1990年6月にテアトル新宿や池袋テアトルダイヤなどで公開(東京テアトル配給)。ミニシアター系列ながら、英米に比べれば上等な条件で上映された。ビデオはバンダイからノートリミング版が発売。

 現在、イギリスのAnchor bay UK社から、監督の音声解説やプロモーション映像を収録したコレクターズ・エディションのPAL盤DVDが発売されている(特典なしの廉価版もリリースされているので要注意)。アメリカで発売されたNTSC盤は、本編のみのTVサイズ版である。

▲日本劇場公開時のチラシ

Production Note

■E・ホッパー的世界と、終末のイメージ
 TVムービー『フロリダ・ストレイツ』(1986)の撮影で訪れたノースカロライナの風景は、ホッジスに新たなインスピレーションを与えた。そこには、かつてエドワード・ホッパーが絵画に描いた古いアメリカの光景が、そのままのかたちで残されていた(ホッパーはスモールタウンの情景や、地元の宿に泊まる旅行者の姿も好んで題材にした)。

 ホッジスはそのイメージをもとに、出資の目途もつかないまま、見切り発車で『ブラック・レインボウ』のオリジナル脚本を書き上げる。

ホッジス「きっかけは、とても奇妙なものでね。私は“この地球上で、我々人類がいかにしてしくじったか”を、ただシンプルに描きたかったんだ。人間のおこないは無知で傲慢で、それどころか全く無益なものだ。そのことに気づかないのは、よほどの愚か者だけさ」

 だが、ホッジスは核兵器や原子力の恐怖といった明白なクリシェを避け、オリジナルな視点から終末観を描いた。低所得労働者が住民の大半を占めるバイブルベルトを舞台にした、超常現象スリラーとして。信心深いアメリカ中西部から南部の地域は、ホッジスにとって魅惑的なドラマの舞台であり、TV作品『新ヒッチハイカー/トーク・レディオ』(1985)でも描いた場所だった。

 彼はまた、オーストラリアで有名な英国人霊媒師、ドリス・ストークスのドキュメンタリー・フィルムからもインスパイアされ、主人公マーサ・トラヴィスのキャラクターを作っていった。

■「パパ、黒い虹が見えるよ」
 『ブラック・レインボウ』という、不吉で幻想的なイメージのタイトルも、ある絵との出会いによって生まれたものである。

ホッジス「ニューヨークにいたときの話だ。私は近代美術館に行って展示を見て回っていた。疲れていたので、大きな絵画の前はほとんど通り過ぎるような感じだった。そこに家族連れがやってきて、父親の肩に抱かれた子供が私を指差すと、“パパ、黒い虹が見えるよ”と言ったんだ。振り返ると、そこにはジム・ダインの巨大な絵画『The Black Rainbow』が掛けられていた。とてつもない迫力の作品で、動揺を誘うほどだったよ。すぐさま美術館にコピーをくれないかと頼み、1枚送ってもらったんだ。そうしてこの作品のタイトルが決まった」

 ホッジスは完成したシナリオを代理人のテレンス・ベイカーに託し、出資者が見つかるのを待った。しばらく後、ベイカーはイギリスの製作会社ゴールドクレストの社長であるジョン・クェステッドと会見。その際、クェステッドは「バート・ランカスター主演の『エルマー・ガントリー/魅せられた男』(1960)のような、バイブルベルトを舞台にした宗教的な作品の企画はないか?」とベイカーに尋ねた。彼はちょうどいいシナリオがあると答え、『ブラック・レインボウ』の製作が始まったのだ。

■R・アークェットの挑戦
▲作品選びは慎重に…
 最も難航したのは、映画のキーとなるマーサ役のキャスティングだった。彼女の屈折したキャラクターは、親近感や好感度を大事にするハリウッド女優たちからは敬遠されたのだ。

 80年代に個性的な映画作家と組み続けてきた若手女優、ロザンナ・アークェットのもとにも、マーサ役のオファーが舞い込んできた。そのシナリオを読むよう彼女に薦めたのは、『アフター・アワーズ』(1985)『ニューヨーク・ストーリー』(1989)で彼女を起用したマーティン・スコセッシ監督だった。

 「マイク・ホッジスという、素晴らしい監督の書いた作品なんだ。ぜひ一緒に仕事をするべきだよ」というスコセッシの言葉に説得され、アークェットはシナリオを読み、マーサのキャラクターに魅了された。そして彼女は、ホッジスからのオファーを快諾する。

アークェット「マーサ役は私にとって“挑戦”だった。主人公の内面に踏み込んで感情表現するというプロセスは、とても苦しいものだったわ」

 たった6週間しかない撮影スケジュールの中で役作りをしなければならなかったアークェットは、実際の女性霊媒師に取材し、演技コーチをつけ、万全を期して作品に臨んだ。ところが、そうした過度な役作りは、監督のホッジスの意図から大きくはみ出すことになる。

 そして、映画のキーとも言える、降霊会シークェンスの撮影現場で事件は起こった。

▲「本物」の霊媒師に扮するアークェット
■激しい衝突
ホッジス「彼女の“演技”は、至るところに感情をぶちまけてしまっていた。確かにそれは私の書いた台詞だったが、全く機能していなかった。惨憺たるものさ。ラッシュを見るまでもなく、明らかに1コマたりとも使えないことが分かっていたんだからね。翌朝、私がロザンナのトレイラーを訪ねると、彼女は私の顔を見るなり“撮り直したいんでしょう?”と言ってきた。そして、ひどい口論が始まったんだ」

 監督と主演女優の怒号は現場中に響き渡り、スタッフの誰もが「製作中止」のサインを頭に思い浮かべた。トレイラーの中から出てきたホッジスは「考えておくんだな!」と言って激しくドアを閉めた。

アークェット「あのときはものすごく取り乱していた。“イギリスの映画監督って、こんなにも感情表現を恐れるの!?”ってね。私は圧倒的に自分が正しいと確信していたのだけど……でも、最終的には“いいわ。あなたを信じることにする”と言ったの。監督を信頼して、彼のやり方でいくってね。そして、それは全く正しい選択だった。ああ神様、彼のことを信じて本当によかったわ!」

 アークェットはラッシュフィルムを見て監督の言い分に納得し、再び撮影に臨んだ。カメラが回ると、彼女は感情的な起伏を押さえ込み、抑制されたトーンを守った。さながら、ストリングスの音が低く長く鳴り続けるように。そうすることでシーン全体がより力強くなったことを、アークェットを始めとする誰もが認めた。

 演技のテンションは監督の注文どおりに引き下げられたが、彼女自身の言葉どおり、アークェットはマーサという役を芯から理解していた。彼女が『ブラック・レインボウ』で到達し得た演技は、そのキャリアの中でもベスト・アクトと言える。

アークェット「真実味のあるものを作ろうとするなら、多少の波風は必要よね(笑)。それらはみんな、クリエイティブな衝突と言えるものだった。それに、大部分において『ブラック・レインボウ』はいい経験になったわ。何よりも私は本当にこの作品がやりたかったし、脚本を愛していたから」

■ジェイソン・ロバーズの存在
▲J・ロバーズのペーソスに溢れた名演
 ロザンナ・アークェットの力演と共に、父親ウォルターを演じた名優ジェイソン・ロバーズの存在感も、本作に豊かな表情を与えている。クラシックな映画俳優の品格を漂わせながら、ロバーズは自堕落な男のペーソスを魅力的に演じ上げた。

ホッジス「ロバーズとの仕事はとても楽しかったね。彼は宗教や超自然といった抽象的なものをまったく信じない人間で、まさに実利主義者のウォルター役にはうってつけだった」

ロバーズ「最初にシナリオを読んだときは、結局どういうことが言いたいのか、よく分からなかったんだ。あまりに様々な意図が描きこまれていたからね。それで妻にも読んでもらったら、“もう一度読み直したほうがいいわよ”って言われたのさ(笑)」

 ロザンナ・アークェットや、ゲイリー役のトム・ハルスもまた、大先輩である名優との共演を大いに楽しんだという。ロバーズ自身は本作について、次のように語っている。

ロバーズ「この映画は、私たちがこの世界でどう生きているか、どのように現世と結びついているかを示唆する作品だ。それも説教くさく見せるのではなく、ある物語の中で起きる出来事として、エンターテインメントのかたちで見せてくれる。私は、観客がこのストーリーから何かを必ず学ぶと確信しているよ」

ホッジス「役者たちのバックグラウンドは、それぞれ全く異なっていた。ロザンナは新世代の演劇学校出身で、『死にゆく者への祈り』のミッキー・ロークと同じく、演じるキャラクターと同じ状況に身を置くタイプ。片やオールドスクール仕込みのジェイソンは、現場でキャラクターになりきるタイプだった。自らをその状況に追い込むのではなく、心情から理解しなければ真実味のある台詞は出てこない、というようにね」

■トム・ハルスの好演
▲冒頭とラストを飾る語り手役のトム・ハルス
 野心的な新聞記者を演じたトム・ハルスは、『アマデウス』のモーツァルト役で世界的に認められた気鋭の若手俳優である。製作者のジョン・クェステッドは、本作での彼の演技を「若き日のアーサー・ケネディやジェームズ・スチュアートに通じるものがある」と評する。

ハルス「僕は自分よりもずっと経験豊かな人達と、一緒に働ける機会によく恵まれている。ロバーズやホッジス、それに素晴らしいライティングを作り出すジェリー・フィッシャーとの仕事は、とてもエキサイティングだった。この映画を一言で表現するなら“ミステリー”だ。ただし、超自然的(Supernatural)という形容ではなく、形而上派(Metaphysical)ミステリーといったほうが正しいね」

■滅び行く町
 ホッジスは3年ぶりにノースカロライナ州のシャーロットにやってきた。『フロリダ・ストレイツ』のときのように、せっかく惚れ込んだ景色を苦心してキューバ領のジャングルにでっち上げたりしなくてもいい。今度こそ、ありのままの町の姿をフィルムに焼き付けるのだ。

 しかし、そこでも彼は、20年前に『狙撃者』(1971)のロケハンで味わったのと同じ感覚に打ちのめされることになる。

ホッジス「たった3年を隔てた間に、私が知っていたシャーロットという町は、ほとんど消え去っていた。多くの美しい建物が取り壊されたあとで、途方に暮れたよ」

 映画の前半、ジェイソン・ロバーズ演じるウォルターが、地元の女性とそんな会話をする場面がある。

ウォルター:どうやらこの町にも開発者たちが押し寄せてきているようだね。
女性:奴らは私たち住民のハートを引き裂こうとしてるんです、ミスター・トラヴィス!
ウォルター:いいや、彼らが切り刻むのは心臓じゃなくて、あなた方の記憶さ。

▲シャーロットの撮影現場にて
ホッジス「それは、実際に町へ戻る前に書いた台詞だったんだが……図らずも、シャーロットはそういう意味でもぴったりのロケ地になってしまった。アイデンティティを失っていく町としてね。ニューカッスルで『狙撃者』を撮ったときと同じく、私はすんでのところで全てを失うところだった」

 幸いにも市の中心から少し離れたところに、手付かずで残された昔ながらの町並みがあったため、撮影隊はそこに常駐した。近代建築のビル群と古い建物が並存するアンバランスな光景は、本作で印象的に捉えられている。

 ホテルの内部はロケーションで見つからなかったため、美術のヴォイテクによってスタジオ内に再現された。彼はまた、降霊会の見事な舞台装置も手掛けている。中南部独特の神秘性といかがわしさを漂わせたムード作りが素晴らしい。

■腐敗
ホッジス「最初にノースカロライナで仕事していたとき、私は地元で起きた特定の事件をスクラップし始めた。工場内での健康基準評価や、事故報告をする担当責任者が、何者かから暴行を受けたり殺害されたりしていた。もちろん口封じのためにね」

▲劇中より、工場事故のシーン
 有力者によって腐敗していく世界。『狙撃者』を例に取るまでもなく、それこそホッジスが常に追い続けてきたテーマだ。そして、『ブラック・レインボウ』ではひとつの町の崩壊だけでなく、エコロジカルなスケールへと発展していく。

ホッジス「虐待は人間のみならず、同時に自然に対してもおこなわれている。私はそこに、科学の乱用という要素も含ませたかった。科学者というのは子供みたいなもので、火遊びが大好きだろう? そうして遺伝子学がもたらした結果は? 原子力の影響について考えたことは? 彼らは専門分野の進歩を追い求めるあまり、人類を破局へと導きかねない。それは避けられないことかもしれないがね」

■道を誤った種への警鐘
 「ずいぶん若い頃に捨て去ったにもかかわらず、私は信仰というものに対していまだに強く惹かれるんだ」とホッジスは言う。

ホッジス「キリスト教にしろイスラム教にしろ、環境を守るための訓戒は必ず含まれている。ネイティヴ・アメリカンやアボリジニといった人々の古い文化の中では、自然はとても大切に扱われていた。自然界から何かを享受するときは、それがどんなに小さなものであっても、再び満たされるように配慮する。同じ土地に息づく全ての動植物に対して、最大限の敬意が払われていたんだ。しかし、後の近代宗教や、現代の物質主義的な思考は、私たちに道を誤らせた。この映画ではそれを描きたかったんだ」

 その警鐘を、ホッジスは水質汚染や原発事故のドキュメンタリーとしてでなく、死後の世界や魂の存在といったスピリチュアルなテーマを含んだ、諦観と深い絶望に満ちた人間ドラマとして描いた。そんな映画は他に類を見ない。

▲悲劇を背負う主人公マーサ
ホッジス「そのためには、私たちに警句を与える予言者のキャラクターが必要だった。そのとき、霊媒師というアイディアが浮かんだんだ。詐欺師にもなりうるし、本物の力を授かった奇跡の人にもなりうる。それは観客それぞれが決めることだ。その発想は私の心を強くとらえた」

 人間の愚かさに対するマーサの嘆きと呪詛、深い不信感は、ホッジスにとってのリアルな感情そのものである。彼女は最終的に未来の預言者となり、時間や生死の概念を超えた存在となる。

ホッジス「預言者というのは大体において感情的に不安定だが、彼女もまさしくそんな人物だ。不安定で、孤独で、不幸せで、いつしか別の時空間へと迷い込んでしまう。それは映画の冒頭で、我ながらイマイチなアイディアだが、“進んだ時計”によって示される。時間とは、自分たちを統制し、囚われの身にするために人類が発明したものだ。そしてもちろん腕時計というのは、その規則を常に意識するよう要求する“手錠”だ」

■“God damn Kudzu!”
 マーサのキャラクターを通して、ホッジスは観客に“死を超えた生命”の存在を示唆しようとした。それは宗教的、精神的なイメージではなく、生命力そのものの不滅性である。そのメタファーとして登場するのが、日本の植物「葛(くず)」だ。

ホッジス「これまで定期的にアメリカを旅する中で、私はそれを何度も見かけていた。その植物は鉄道資材用に日本から輸入され、あっという間にアメリカ南部で繁殖し、完全に駆逐することは不可能なくらい広まってしまったそうだ。非常に感銘を受けたね。それは電柱だろうが民家だろうが、ところ構わずツタを伸ばし、全てを覆い尽くして無限に広がっていく。驚異的じゃないか。まるで自然が人類に対して“このちっぽけなくそったれどもが。自分たちのしでかしたことを知るがいい!”と言っているようで、なんとも勇気付けられたよ。葛は地上の全てを支配する。まるで人類なんか存在していないかのように。そして我々は、それを滅ぼす術を持たないんだ」

 葛は、人間の終末をイメージさせ、同時に生命サイクルの永続性を表してもいる。

■葬られた映画
 たった6週間のスケジュールと700万ドルの予算で、ホッジスは優れた作品を生み出してみせた。彼にとっては80年代に入ってから初めて、全作業工程を何の制約も受けずに貫くことのできた作品だった。

 しかし、最後の最後でまたしても問題が発生する。

▲米版ビデオジャケット
 イギリスでは、『ブラック・レインボウ』はスティーヴン・ウーリーとニック・パウエルの経営するパレス・ピクチャーズによって配給された。当時、同社は財政難に苦しんでおり、売り上げを回収するため早急にソフト化権を売却。ごく短い期間に形だけの公開を済ませた後、ビデオがリリースされた。その後もパレス・ピクチャーズの窮乏はしばらく続き、劇場収入を直接現場に回すほどの自転車操業で製作した『クライング・ゲーム』(1993)のスマッシュヒットによって、ようやく持ち直したのだった。

 そしてアメリカでは、数年後にミニ・メジャー級の製作会社として急成長するミラマックス・フィルムズが配給したが、こちらも経済的事情でビデオ化権を叩き売られ、劇場公開すらされずにケーブルTVで初公開された。そのままビデオ・LDがリリースされ、作品への高い評価をスクリーンで確認するすべはなかった。

 それでも本作は各国の映画祭を回り、監督と主演女優がプロモーションに駆けめぐった。作品は各地で高い評価を受け、“ファンタスポルト”ことオポルト国際映画祭では『不眠症―インソムニア―』(1988)といった作品と共に出品され、見事に作品賞と主演女優賞を受賞。シッチェス国際ファンタスティック映画祭でも『コックと泥棒、その妻と愛人』(1989)などと並んで絶賛され、主演女優賞と脚本賞を勝ち取った。しかし、劇場での再リリースなどはされずに終わり、ホッジスにとっては無念の残る作品となった。

■メッセージ・イン・ア・ボトル
 数年後、サウス・ロンドンのブリクストン。ホッジスは『ルール・オブ・デス』(1998)の音楽制作のため、サイモン・フィッシャー・ターナーのフラットで録音作業をおこなっていた。そこに、一人の日本人ミュージシャンが友人のターナーを訪ねてきた。その場でやあやあと挨拶を交わし、彼はその場を後にした。

 ホッジスは再び仕事に戻ったが、しばらくすると、その日本人が興奮した様子で部屋に戻ってきて言った。「ひょっとして、『ブラック・レインボウ』の監督ですか!?」

ホッジス「彼は『ブラック・レインボウ』を6回観たと言っていた。ビデオでかい? と尋ねたら、“いいえ、映画館で観ました!”と答えた。それもかなり大きい劇場で、とね」

 「大きい劇場」はやや言い過ぎかもしれないが、確かに英米の状況に比べれば、日本での公開はずっとマシだったろう(批評的には黙殺に近いものがあったと思うが)。自身のキャリアの中でも思い入れの強い作品が、思わぬところで受け入れられていたことを知り、ホッジスは驚きと共に安堵した。

ホッジス「今まで誰もそんなことを教えてはくれなかった。まるで壜詰めの手紙を海に放したみたいに、『ブラック・レインボウ』は東の地へと流れ着いていたんだ。私は日本人がこの作品を気に入るわけが分かるよ。彼らはゴースト・ストーリーが好きだからね」

▲日本版ビデオジャケット

Review

 ヒロインの人物造形の素晴らしさで、『ブラック・レインボウ』は傑出している。誰よりも他人の温もりを欲しながら、孤独に傷つき、絶望し、救いがたく屈折してしまった女性。超自然スリラーというジャンル映画の設定を使って、孤独な若年女性像をここまでリアリスティックに、痛切に、巧みに描いた作品はない。現代的な共感性も含めれば、『回転』(1961)や『たたり』(1963)といった心(理)霊スリラーの古典ヒロインたちを超えている。

 演じるロザンナ・アークェットの鬼気迫る美しさは、もはや神懸かり的ですらある。少女性とグラマラスな肢体のアンバランスさが、『ブラック・レインボウ』では特に際立っている。個人的には、この映画の彼女がいちばん美しいと思う。

 怨恨や復讐といった現世の感情とは無縁の霊的存在、残留思念による霊現象など、欧米の映画としては異色の描写が多い。終末のビジョンを個人の視点から幻視してしまうという物語(そして、他者との関係性に対する絶望)は、『カリスマ』(1999)『回路』(2000)といった黒沢清監督の諸作品を思わせる。ホッジスの視点はより明白に社会的で、そのクライマックスも活劇的に処理されているが。

 マイケル・ダグラスそっくりなマーク・ジョイ演じるヒットマンの家庭を描く場面は、いかにもホッジスらしい悪意が表現された、喜劇的シークェンスだ。彼は4人の子供達のよき父親として、暴力とは無縁の世界を築き上げている。妻は夫がCIAの仕事に関わっていると思っているらしい。そして幼い娘に「地球の人口は?」と尋ねられ、彼は「多すぎる(Too many.)」と答える。本編の中でもやや浮いているくらい見え透いたユーモアだが、ホッジスの作家性がこれ以上ないほど露骨に表れた部分であり、見逃すことのできないシーンだ。

 社会派の要素も多分に含みながら、スリラーとしての面白さも十分以上に備えているところが本作の魅力。特に、回想形式を使って巧みにツイストを決めてみせるラストシーンが見事だ。R・アークェットの微笑は、名状しがたい恐怖と哀しみをもって、強烈なインパクトを残す。


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