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The Terminal Man
『電子頭脳人間』


▲米国版ポスター
【スタッフ】
製作・監督・脚本/マイク・ホッジス
原作/マイケル・クライトン
撮影/リチャード・H・クライン
美術監督/フレッド・ハープマン
編集/ロバート・L・ウォルフ
音楽/J・S・バッハ「ゴールドベルク変奏曲25番」
演奏/グレン・グールド

【キャスト】
ジョージ・シーガル(ハリー・ベンソン)
ジョーン・ハケット(ジャネット・ロス医師)
リチャード・A・ダイサート(ジョン・エリス博士)
ドナルド・モファット(アーサー・マクファーソン医師)
マイケル・グウィン(ロバート・モリス医師)
ジル・クレイバーグ(アンジェラ・ブラック)
ヴィクター・アーゴ(病院職員)

[1974年アメリカ映画/カラー/107分/ヴィスタ/ワーナーブラザーズ制作]
日本公開:1974年10月(ワーナーブラザーズ配給)


Story

 その日、ロサンジェルスの大病院で、革新的な脳外科手術がおこなわれようとしていた。患者は、コンピューター科学者のハリー・ベンソン(ジョージ・シーガル)。彼は交通事故で脳に障害を負って以来、しばしば強烈な暴力衝動に襲われて傷害事件を起こしており、今では警察の監視下に置かれていた。その再犯防止のため、手術で彼の脳内にチップを埋め込み、発作が起こったときには脳の快楽中枢に電気刺激を与えることで、衝動を抑止しようというのだ。

 ハリーの主治医である女医ジャネット・ロス(ジョーン・ハケット)は、彼の不安定な精神状態を鑑みてこれに批判的だったが、脳外科手術の権威エリス博士(リチャード・A・ダイサート)を始めとする野心的な医師たちはオペを強行。極度の緊張の中で大手術が執りおこなわれ、ハリーの脳には大量のワイヤーとマイクロチップが埋め込まれる。

 術後の電気刺激テストも順調に進み、手術はとりあえず成功したかに見えた。ところが数時間後、ハリーは病院を脱走。恋人のアンジェラ(ジル・クレイバーグ)のもとに身を隠した。医師たちは慌てて警察に協力を仰ぎ、捜索が開始される。

 その頃、ハリーの脳には異常が起きていた。脳神経がコンピュータからの快楽刺激を求め、発作が促進されてしまったのだ。ハリーは強い衝動に襲われ、アンジェラをハサミで滅多刺しにしてしまう。

 恐怖に駆られたハリーは町へと飛び出し、ロスは彼の行方を追って奔走する。そして、次の発作の時間が刻々と迫っていた……。

▲ジョーン・ハケット(左)とジョージ・シーガル

About the Film

■冷徹なモダニズムで描かれる“孤独”
 マイケル・クライトンの長編小説『ターミナル・マン』を基に、マイク・ホッジスが製作・脚本・監督を手がけた医学SFスリラー。ホッジスにとっては初のハリウッド作品となった。

 主人公ハリー・ベンソンは不慮の事故によって精神異常を患い、救済を求めて最新医学にすがる。だが、彼は治療の根本的なミスによって殺人者と化し、危険分子として抹殺されてしまう……。この極めて救いようのない物語を、ホッジスは虚飾を廃したソリッドな映像と、モダンなセットデザインの中で、無機質に淡々と映し出す。音楽は孤高のピアニスト、グレン・グールドが奏でるJ・S・バッハの「ゴールドベルク変奏曲25番」のみ。もちろん、ホッジスらしい非情さと悪意、冷徹なユーモアも健在。しかし作品に満ちあふれているのは、どこまでも深い孤独感と悲しみだ。

■現代版フランケンシュタイン
▲端末化進行中の主人公
 
▲しょぼくれた役がよく似合うジョージ・シーガル
 「ターミナル・マン」とは、脳手術によってコンピュータの制御を受け、その指令を反映する一個の端末(=terminal)と化した人間のことを差す。原作には、「それは医学の進歩がもたらした新しい人間存在のかたちではないだろうか」と医師がテープに吹き込む場面がある(映画版では削除)。つまり、テクノロジーによる自発的な進化だ。医師たちは計画の非人間性に無自覚なまま手術を強行し、あげく1人の人間を暴走する狂人へと変えてしまう。

 要するに「現代版フランケンシュタイン」とでもいうべきストーリーだが、ホッジスはそれを「どこにでもいる孤独な人間を見舞う悲劇」として痛切に描いた。

■ハリーの災難〜ジョージ・シーガルの名演〜
 主人公ハリー・ベンソンを演じたのは、ジョージ・シーガル。『ホット・ロック』(1971)や『おかしな泥棒/ディック&ジェーン』(1973)といったコメディ作品での印象が強いが、男の弱さや哀愁を演じさせても絶品の俳優だ。ニューシネマの佳作『生き残るヤツ』(1971)や、ロバート・アルトマン監督の『ジャックポット』(1974)などと並んで、本作では彼の「負の魅力」を堪能できる。ロボット工学の権威という設定だが、映画で映し出されるのはあくまで“誰でもあり得る”平凡な男だ。シーガルの共感を誘うキャラクターが、映画版に独自の膨らみを与えている。

 主人公を献身的に救おうとする女医ロス役、ジョーン・ハケットの好演も印象的。劇中でただ一人、暖かみと人間性を象徴する存在であり、知性と美しさを兼ね備えた人物をスマートに演じている。その他の出演作には『グループ』(1966)『夕陽に立つ保安官』(1969)などがあり、ニール・サイモン脚本の『泣かないで』(1981)ではゴールデン・グローブ助演女優賞を受賞。惜しくも1983年に49歳という若さで亡くなった。

 ジャンル映画ファン的には、寄ってたかって手術を推進しようとする医師たちの顔ぶれに、『遊星からの物体X』(1982)のドナルド・モファットとリチャード・A・ダイサートがいるのが面白い。カーペンターは本作を参考にしたのだろうか?

■モダンなルック、簡潔な演出
 撮影を担当したのは、『絞殺魔』(1968)や『ソイレント・グリーン』(1973)、同じくM・クライトン原作の『アンドロメダ…』(1971)などを手がけたリチャード・H・クライン。フレッド・ハープマンの無機質なセットデザインと共に、色味の少ないクールな映像を作り出している。制作から30年以上を経た今でも、そのモダニズムは色褪せていない。

▲モノトーンを基調としたクールな映像
▲やや『アンドロメダ…』っぽい手術シーン

 だが、あからさまに凝ったレイアウトやカメラワークは少なく、ホッジスの演出はシンプリシティを貫き通す。さりげなく、しかし鮮烈に。

 主人公が脳内に埋め込んだ電極の刺激テストを受けるシーンでは、簡潔なスタイルでトリッキーな効果を生みだしている。電気刺激によって自分の意志と関係なく喜怒哀楽を見せる主人公のグロテスクな姿と、すぐ外の廊下で無駄話に興じて大笑いする病院職員たちの自然な表情とが対比されるのだ(ここで職員役を演じているのが、マーティン・スコセッシやエイベル・フェラーラ作品の常連俳優であるヴィクター・アーゴ)。あざといほど洗練された手法で、効果的にテーマを物語る、ある意味で本作のクライマックスといえるだろう。ホッジスらしい鋭利な悪意と残酷さが光る、強烈なシークエンスである。

■救いなき暴力と死
 主人公が繰り広げる暴力描写の異様な迫力も、当時のハリウッド作品としてはかなり斬新だ。派手さはないが、気が滅入るほど殺伐とした感覚は、ある意味『狙撃者』(1971) をも凌ぐものがある。何せ彼が殺す相手は、無抵抗のガールフレンドと老神父なのだ。助けを求めてすがった愛も信仰も、結局は自らの手で破壊してしまうのである。さらに、自分の作ったロボットをぶん殴り続けるというユーモラスな場面も登場するが、あまりに冷徹でほとんど笑えない。

 エンディングの舞台に墓地を選んだのも、ホッジスらしい脚色だ(原作では病院の地下)。小説のSF的・活劇的なクライマックスからは遠く離れ、人間の生と死が図式的に描かれる。ちなみにクライトンはその脚色に対して、はっきりと苦言を呈したそうだ(彼は当初、自らの監督・脚色で『ターミナル・マン』の映像化を望んでいた)。

■興行的失敗と一部での評価
▲日本公開時のチラシ
 本作は意欲的な内容ながら、商業性に欠け、批評家からも観客からも支持を得られず、興行的には惨敗した。監督の祖国イギリスでは劇場公開すらされなかった。しかし、その独特のタッチを偏愛するファンもいて、その中の一人だったテレンス・マリック監督は、ホッジスにこんなファンレターを送っている。曰く、

「あなたがこの映画で作り上げたムードは、私が今までに観たどんな映画にも感じたことがありません。あなたの描いたイメージは、私に“イメージとは何か”を教えてくれました。決して美しい画ではないかもしれませんが、それは矢のごとく観る者を刺し貫き、イメージそのものの言語で語りかけます。悲しさの意味を。人生がいかにたやすく崩壊し、転落していくかを。そして何も報われないまま、この世界で生きるということを……」

 ちなみに、同じくワーナー配給で公開されたマリックの『地獄の逃避行』(1973)も、同時期に大コケしている。同作を試写で観たホッジスはいたく感銘を受けたが、他の観客たちは皆一様に冷たい反応だった。その様子を見て彼は「自分の映画もアメリカで同じ運命を辿るだろう」と予感したという。

 日本ではワーナー配給で、1974年10月に全国東急系劇場で公開されたが、短命に終わった。

■ディレクターズ・カット
 公開時の不評ぶりにもかかわらず、アメリカでは幾度もTV放映され、結果的には多くの人の目に触れたそうだ(プロデューサーも務めたホッジスの懐には、かなり長いこと放映料が振り込まれ続けていたという)。ビデオはワーナーブラザーズから発売された。

 ホッジスは、本作の再ソフト化の際には、ディレクターズ・カット版でのリリースを望んでいる。前半にある、医師たちと病院の広報担当者が会食するシーンを削除したいらしい。しかし、アメリカでもヨーロッパでも、本作はいまだにDVD化されていない。


【追記】アメリカでは2009年にワーナー・アーカイブ・コレクションからオンデマンドDVD(注文数だけ生産・発送するDVD-R)が発売された。日本でも同様に、ワーナーからオンデマンドDVD形式で2011年に発売されたが、当初は4:3のVHS版マスターをそのまま流用。2016年に復刻シネマライブラリーから発売されたDVD-Rは、米国盤と同じヴィスタサイズの高画質マスターを使用している。

▲米・ワーナーアーカイブ版『電子頭脳人間』DVDジャケット


Production Note

■脱出
 『PULP』公開後の1972年の冬、ホッジスは初めてハリウッドからのオファーを受ける。ワーナーブラザーズから、マイケル・クライトンのSF小説『ターミナル・マン』を映画化しないかと持ちかけられたのだ。ハリウッドで映画を撮ることは、彼にとってやりがいのある挑戦だった。依頼を承諾したホッジスだったが、その決心の裏には、別の私的な問題も含まれていたのである。

 その頃、彼は心に深い憂鬱を抱えていた。家族もいる。家もある。名声も得た。しかし満たされない――さながらトーキング・ヘッズの「Once In A Lifetime」の歌詞のような気分が、彼を単身アメリカへと向かわせたのだ。

 しかし、そこでホッジスを待っていたのは、正真正銘の孤独だった。

■メルトダウン
 マイク・ホッジスはハリウッドに来てからダメになった。別に監督としてのキャリアのことではない。ロスへ移った直後、本当に神経衰弱状態に陥ってしまったのだ。

 知人もいない。文化にも馴染めない。何もかもがイギリスとは違う。彼はすぐさま後悔した。ホッジスは用意されたホテルの部屋に引きこもり、誰とも会わなかった。精神科医によるセラピーも役に立たず、激しいめまいに苦しんだ。

 そのうち彼は、室内のありとあらゆるものをカメラで撮りまくって正気を保った。トイレで用を足すときでさえ、カメラを手放さなかったという。

 やがて自ら編み出したファインダー療法は功を奏し、ホッジスはなんとか鬱症状から立ち直った。その強烈な孤独感を経験した直後に書き上げたのが、この『電子頭脳人間』のシナリオである。ゆえに、映画の中で濃密に漂う疎外感や寂しさは、当時の彼自身が味わっていた苦痛そのものだ。その意味で、彼の努力(?)は無駄にならなかった。

■キーイメージ降臨〜エドワード・ホッパーの絵画〜
 もう前に進むしかない。今度は具体的な映像化のプランを決めなければならなかった。SFモンスター映画の古典『放射能X』(1953)などを参考に、モノクローム調のルックにすることは早い段階で決定したが、はっきりとしたインスピレーションを与えたのは、アメリカの画家エドワード・ホッパーの作品群だった。

▲エドワード・ホッパー“Automat”1927
 ホッパーは、深夜のダイナーやホテルの一室に佇む人々の姿を切り取り、都市生活者や現代人の孤独を描いた作品で知られている。その作風はフィルムノワールのイメージにも重ねられ、ダリオ・アルジェント監督の『サスペリアPART2』(1976)や、ヴィム・ヴェンダース監督の『エンド・オブ・バイオレンス』(1999)といった映画でオマージュを捧げられることも多い。だが、当時のイギリスではホッパーの知名度は低く、ホッジス自身も彼のことをまったく知らなかったという。

ホッジス「ある時ハリウッド大通りの書店で、ふと彼の画集を手にとったんだ。ページをめくると、そこには私の撮ろうとしている映画の姿があった。アメリカの都会に漂う、透き通るような孤独が……。その瞬間、私はホッパーが捉えた感覚と同じものを、自分の映画に移し換えるんだと心に決めたんだ。今でもその画集を持っているよ」

■セットデザイン
 『電子頭脳人間』では建物や内装、登場人物の服装に至るまで、全ての色が白か黒、またはグレーか茶色に統一されている。そこまで色彩をコントロールできたのは、やはり美術を手がけたフレッド・ハープマンによるところが大きい。前2作をオールロケで製作したホッジスは、実際の病院で手術シーンを撮影することに固執したが、ハープマンが待ったをかけた。決して多いとは言えない予算の枠内で、彼はワーナーのスタジオに、近未来的なデザインの巨大な病院を見事に作り出したのである。

ホッジス「まず撮影の自由を許してくれる場所が、ロスには存在しなかった。しかし結局はフレッドに“自分たちでも立派なステージを造れる”と確信させられたんだ。彼は私の願いを叶えてくれた。この時から私はセット撮影が好きになったのさ。そこでは何もかも、監督の思い通りに、自由に作り出せるからね」

■撮影
 ホッジスはまたリアリティを追求するため、50万ドルもする本物の医療器械をスタジオ内に持ち込んだ。そして初めてストーリーボードを書き、綿密な演出プランを立て、2週間かけて手術シーンを撮影した。その苦労は相当なものだったようだ。

ホッジス「私はこの場面で、観客の興味を失いたくなかった。今この世の中で、マインドコントロールがどこまでリアルなものなのかを、具体的に見せたかったんだ。本当に頭の中へワイヤーを入れられる感じをね」

 撮影のリチャード・H・クラインは、前年に『ソイレント・グリーン』においてスモッグで煙った2022年のニューヨークを映像化したが、本作ではそれとは全く異なるアプローチで「SF映画」の創造に挑んでいる。空想的なガジェットはほとんど登場せず、しかし変わりつつある世界をリアルに予感させる映像だ。クラインは本作についてこう語っている。

クライン「面白い作品だったね。ホッジスは才能ある監督で、ストーリーも興味深いものだった。私たちは映画全体から、青空を初めとする自然の色を徹底的に排除した。全ての映像はモノクロームのようなカラーで撮られている。例外はラストに登場する墓地の芝生だけだ。ルックも物語も、オフビートな作品だった」

■キャスティング
 主人公ハリー役には、ジョージ・シーガルがキャスティングされた。人間の孤独を一身に背負う殉教者のような役柄を、コミカルな演技が得意なシーガルが演じる妙も、この作品の持ち味である。彼は知性の高いキャラクターを表現するにあたって、抑制した演技を心がけた。それはホッジスの演出法とも合致するアプローチであった。

▲悲惨だが妙にカッコいいG・シーガル
シーガル「ある意味、それは“最小限の演技”と言えるだろう。マイクは全ての俳優にそうした芝居を望んだ。そのおかげで、この映画は今でも観るに堪える、クリーンな印象の作品になっているんだと思う」

ホッジス「当時、ジョージ・シーガルは軽妙な喜劇俳優として認知されていたが、それでも私は彼をこの映画の主役に据えると決めた。というのも、彼が演じるというだけで、観客は自然と主人公に感情移入すると思ったんだ。私は今でも、この映画での彼は素晴らしいと思っている。凄い俳優だよ」


■ホッジス・スタイル・イン・アメリカ
 映像も演出も芝居もミニマルなスタイルで統一しながら、ホッジスは現場レベルでの即興性を尊重した。それはいまだに変わらない彼の演出メソッドである。

シーガル「マイクは撮影前から大体のビジョンを頭の中で固めている一方で、現場では俳優に即興で演じさせるんだ。一緒にコラボレートするようなムードを作り出してくれるから、とてもやりやすかったね。今まで共に仕事をしてきた監督たちの中でも、マイクはかなり上位に入るよ」

ホッジス「映画は生きている。窒息させたりしちゃダメだ。芸術に偏りすぎるのも、構想を膨らませすぎるのも、リサーチしすぎるのも、何が何でも現場で思い通りに進めようとするのも良くない。俳優とロケーションは、いつだって監督が予想だにしない何かを与えてくれるものだ。素晴らしいことはきっと起きる。監督は映画とダンスし、常に生かしておかなければならない」

 後の興行的な失敗はさておき、英国から来た才人ホッジスが持ち込んだ斬新な演出は、ハリウッドの映画人たちにはいい刺激になったようだ。

シーガル「この映画で、マイクは狂気と妄執に満ちた冷たい題材を扱っているが、彼自身はとても誠実な、本物の人間性の持ち主だった。キャメラマンを初めとする技術スタッフとも、素晴らしい関係を築いていたよ。僕らはみんな、一体どうやってあんなに見事な病院のセットをスタジオ内に作り出すことができたのか、驚くほかなかった。だけどマイクには、この作品がどうあるべきか、そしてそれをどのように具現化するべきか、しっかりと分かっていたのさ」

▲日本版ビデオジャケット

Review

 とにかくこんな寂しい気持ちになるSF映画もない。寒々しい画面と深刻なムードが支配し、感動をゴリ押しするエモーションもない。手術シーンは執拗に長いし、エンターテインメントとして見ると退屈だろう。そもそもSF映画だったか?と言われると、さらに返答に窮してしまう。

 だが、全編に漂う寂寥感といい、スタイリッシュなビジュアルといい、やはり本作には人を惹きつけずにはおかない魅力がある。はっきり言って、かっこいいのだ。

 肉体と精神がまさしく暴力的に変容し、もはや人間ではない「悲劇」そのものと化した男。その姿には、不思議と純粋な美しさがある。ラスト近く、血に染まった純白のスーツをまとい、銃を手に葬儀場をふらつく主人公の姿は、絶望と滑稽さを湛えていながらも、ひどくクールなのである。

 映画評論家の佐藤重臣は、公開当時「キネマ旬報」のレビューで「イライラする位の失敗作」「大変に凡骨」と切り捨てながら、しっかり本質を突いている。曰く、「これでは少しもSFにならないのだ。要するに手術がうまくゆかなくなって、再び殺人鬼に戻ってしまった男の話なのだ。それ以外、なにものでもない」……まったくそのとおりである。

 マイケル・クライトンの原作『ターミナル・マン』は一応サスペンス仕立てで、後半では主人公を追う医師と刑事たちの姿をカットバックし、緊迫感を煽る。映画も構成上はそうなっているが、主人公に同情的なトーンが濃密なため、有り体のサスペンスが入る余地がない。

 原作の主人公ハリーは一言で言えば「エキセントリック」として読む事ができ、後半のモンスター化もすんなり理解できる。だが映画『電子頭脳人間』で映し出されるのは、寂しげな笑みを浮かべたジョージ・シーガルの姿なのだ。監督のホッジスは原作からエンターテインメントの要素すらそぎ落とし、「孤独な男の悲劇」というテーマをストイックに抽出した。娯楽作家クライトンの矜持どこへやら、である。

 とはいえ、発狂シーンで沸騰する暴力性と恐怖感は圧巻で、この辺りの硬質なスリラー演出がクライトンとホッジスの共通点とも思える。

 余談だが、ロス医師がハリーのアパートを訪ね、階段を上っていくショットの陰影は、なぜか『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)の一場面とかなり似ている。この引用は意図的なものか? また後半、ロス医師の立てこもったバスルームのドアを、発狂したハリーが素手で破壊するシーンは、限りなく『シャイニング』(1980)を想起させる。スタンリー・キューブリックが本作を気に入っていたという話もあり、だとすればジャック・ニコルソンのドア破壊はまさに『電子頭脳人間』への愛あるオマージュ?だ。


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